実は上から目線な「赦し」

聖書にある、キリストの御受難時の十字架上の言葉、あれ実はすごい上から目線なんじゃなかろうかと思っている。

猿に話しかけてみよう。
勿論通じないと思う。ではその時、
①「猿には日本語が通じないのか」と思って英語や他の言語で話しかけてみる
②「猿には言葉が通じないのか」と思ってあきらめる
さてどちらだろう? もちろん②ですよね。
キリストが天の父に向って、自分を十字架につけた連中への赦しを請う形で発した「自分たちが何をしてるのか分かってないのです」という言葉も、実はこれとおんなじなんじゃなかろうか? 気付く気付かないの話ではなく、根本的に理解できるわけがないというレベルで「自分で自分が何をやってるのか分かっていない」という話だったのでは……?

更にもう一歩突っ込んでみる。
そもそも「赦す」という行為は、「赦すかどうかを問題にしなければならないような事象がある」という前提で話してるのではないか? つまり「✖はあるんだがそれを赦せ」と言うのが主張であって、「✖がなかったことにしろ」とは神様は一言も言っていない。
だから「(7回どころか)7の70倍赦しなさい」というセリフが出て来たんであろう。「なかったことにしろ」「そもそも気にかけるな」って言うなら、回数にこだわった「何回でも赦せ」とは言わず「それは認識されるものではない」(から回数も勘定できない)という話になるのではなかろうか。

つまり、「赦す」ってのはかなり「上から目線」の行為であって、「お前は悪であり✖だが俺は赦す」という、最強の奴にしか取れない行動なんだよな。

と気付いたというお話。







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