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zoom RSS これを書かずに俺は死ねん 44 島原ボランティア参戦記

<<   作成日時 : 2008/07/15 01:02   >>

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雲仙普賢岳が噴火したのは1990年のこと。最初は地元でも「観光資源になるんじゃないか?」くらいに考えてたフシがあったが(詳細後述)、溶岩ドームが崩れて高温・高速の煙のような粉体流が発生、報道陣が陣取っていた「定点」と呼ばれるところを飲み込んで多数の死者を出した頃から事態は悪化。交通も分断、地元の人々の惨状が報道されるようになった。件の粉体流を指す専門用語「火砕流」なんてのが急にポピュラーになったのをご記憶の方も多いと思う。
1991年の夏。当時の勤め先では夏休みは5日取れたので、8月最後の週に前後の週末とつなげて9連休にした。当時はまだインターネットなんぞは無いに等しく(携帯電話もほとんど見かけなかったな)、パソコン通信の掲示板で情報を募ったら、「島原ボランティア協議会」というのが立ち上がったという情報を提供してくれたメンバーがいて、早速そこへ電話。「仕事は一応落ち着いてきてますけど、よろしければどうぞ」とのこと。

夏休みに入る前日の金曜夜、仕事を終えてから東京駅へ直行し、新幹線で姫路へ向かい、そこで「なは」に乗り継いだ。レガートシートで一夜を過ごし、朝早くに熊本駅到着。まだ乗っていなかった三角線乗りつぶしを行程に織り込んで、三角からフェリーで島原入りを考えていたんだが……。
三角駅で降りて、フェリー乗り場へ行ってみてびっくり。持参した全国版の時刻表には、三角〜島原間の航路は1日15往復ほどが記載されていたのに、切符売場の窓口には「災害のため、臨時ダイヤで運行しています」という文字と、1日3便だけのダイヤが添えられた手書きの貼紙。次は午後3時過ぎとのこと。
「ここから島原行く方法は次のフェリー待つしかない?」
「天草の方へ行くと松島っていう港があって、そこから有家までフェリーがあるけど、島原まで今鉄道は止まってるし国道も通れないし……。」
鉄道の代替が何かあるだろうと思い、とりあえず次のバスで松島へ向かうことにした。名にし負うパールラインの旅を、ひょんなことから体験できた。
松島からのフェリーはバスと接続もよかったが、ガラガラ。車数台、徒歩客は俺一人。担いだカバンに付けていた青函連絡船のタグを船員さんが見て、「船がお好きなんですか」と声をかけてきた。
フェリーを降り、ようやく島原半島へ取りつくことができたというところだが、この先どうやったら島原へたどり着けるのか。有家駅へ向かったら、布津と島原の間で船が代行輸送をしているとのこと。妙なことで初めての島原鉄道乗車となった。布津で降りて小さな旅客船に乗り換え、沖合いに停泊する巡視船と護衛艦に見守られながら被災地沿いに北上、島原外港へは午後の早い時間帯に着いた。
島原外港の待合室には、普賢岳噴火の様子の写真パネルが多数掲示されていた。しかし、いずれも「あの」火砕流発生の日よりも前のものである(「白煙を上げる普賢岳」といったもの)。おそらく、あの火砕流の前の沈静化しかかった時くらいまで、今回の噴火も安全に見物できるものだ、桜島や浅間のように、島原でもこれを使って観光振興ができるんじゃないか……と考えられていたのだろう。

島原外港駅のすぐ前にあるユースホステルに荷物を預け、ボランティア協議会の本部事務局へ。不通区間北側の島鉄に乗って島原駅へ出、駅の公衆電話で尋ねて探し当てた事務局は、廃業した旅館にあった。渡り廊下だったようなところを事務所にしていて、本館部分は完全に無人。別棟の修学旅行用のような大部屋には布団類が置かれ、希望者はそこで寝泊まりしてよいとのこと。翌日以降もYHに泊るつもりでいたので、この無料宿泊所はありがたかった。
顔合わせということで翌朝の予定を聞き、辞して島原市内へ。島原城址は自衛隊の基地と化していて、停めてある装甲車に乗って写真を撮らせてもらえた。

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翌朝、YHをチェックアウトして列車で協議会本部へ移動。その日の作業は小学校の体育館から支援物資を移動するというもので、

体育館の床一面に洗濯洗剤の箱が列をなしていた。

子供たちが渡り廊下で球技をしているのが見えた。「体育館がこれで、しかたなくあそこを体育館替わりにしてるんです」と市の福祉部署の職員氏。海に近い一角に市が倉庫を借りて、そこへこの物資を移すという。洗剤と言うよりゴミと言った方がよさそうな状態のものもあり、持ち上げたら粉が飛び散って全員でゲホゲホハクション。
実際、避難して(別の)体育館で寝泊まりしている人々もいるのであるが、島原市が街としての機能を失ったかと言えばそんなことはまったくないわけで、これだけの物資を一気に市中に解放してしまったら、その方がむしろ島原の商圏を破壊してしまうことになりかねない……これはボランティア協議会のメンバーの説明。
しっかしまあ、我々が手に取った品物は、そんな箱に穴の開いた洗剤とか、古本とか、20年前の缶詰(まだ「賞味期限」の表示はなかった時代)とか、送った奴は何考えてやがんだろというものの山であったことは確かである。ちなみに古本は被災者に温泉を開放していた観光ホテルのロビーに「ご自由にお持ち下さい」状態で山積になっていた。……我々ボランティアにもその宿から「よければお風呂へどうぞ」という連絡があり、それじゃあと一風呂浴びに出掛けて、その本の山を目撃したわけである。
以降、何か災害が起きると、やれ毛布だのやれ缶詰だの被災地へ送ろうと言い出す連中には、この時の経験を話して「少なくともお前さんがそれを送るということは、お前さんがそれを捨てても構わない状態にあるのだよな? 判断基準は相手の要不要であって、お前さんの要不要じゃねえぞ」と指摘し、やめさせるようにしている。誤解を恐れず言えば、何を送るよりもお金の方がいい。モノを送りたけりゃ山谷とか釜ヶ崎とか、今現在災害なんぞなくてもいくらでも需要があるんだけどねえ……。

その後のことで思い出す限りを。
体育館からの洗剤移動作戦中に朝日新聞の家庭欄の記者が取材にやってきた。一緒に夕飯をとった覚えがあるので、1泊2日でボランティア事務局へ泊って行ったと思う。確かその記者の方が泊った夜だと思ったが、夕飯を取りにその晩の無料宿泊メンバー全員車で出て、リンガーハットがあったので「ここでいい?」と俺が聞いたら、全員から「なんで長崎県まで来てリンガーハット!?」という反応があった。実はそれまで、リンガーハットが長崎ちゃんぽんの全国チェーンだと全然知らなかったのである。
少し手が空いたので、その記者氏や他のボランティアメンバーと一緒に、車で溶岩ドームの見えるところへ行ってみたら、すぐ横の尾根から突然「ボンッ」と噴煙(これも火砕流だったらしい)が上がり「やばくねえ?」「やばいなこれ!」全員半ばパニック状態で退避した。翌日の報道によれば先の大火砕流以来の規模のものが発生し、それまでと違う方向へ走ったとのことで、もう少し勢いがあったら我々のいたところへ尾根を越えて到達していたかもしれないという話に、真夏の冷や汗。
作業の要請がなく、丸一日空いてしまった日には、ボランティアメンバーと一緒に雲仙の教会まで行ってみた。ここは教皇ヨハネ・パウロ2世の来日を記念して献堂されたんであるが、霧の中たどり着いた教会の玄関には「しばらくミサはありません」の張り紙が剥がれかけて寂しく揺れていたっけ。
事務所が川べりで、河口に近いもんだから、カニがウジャウジャいた。それが座敷にも出てきて、手のひらサイズ(笑)の蜘蛛と座敷の真ん中でにらめっこしてたのにゃ驚いた。

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最終日は島鉄で北上、フェリーで大牟田へ出て、日田彦山線の未乗区間に行ってみようと思い、久大本線から日田彦山線に入った。そのまま小倉へ抜け、新幹線を新岩国まで乗って、「新幹線と一緒になれなかった駅」として有名な錦川鉄道の御庄駅へ歩き、在来線経由で広島の叔父貴のところへ転がり込んで一泊。翌日はやはり未乗だった可部線乗車の後、広島から「あさかぜ」で東上、月曜日はそのまま出勤した。つまり家に帰らず旅に出て、家に帰らず出勤したわけである。
で、職場のおばちゃんが「あんたのことが新聞にでっかく出てるわよぉ!」あの朝日新聞の取材記事が前日日曜日の家庭面に掲載されていて、洗剤だのタオルだのを運ぶ俺の勇姿が堂々紙面を飾っておりましたとさ。



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