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zoom RSS テーマ「これを書かずに俺は死ねん」のブログ記事

みんなの「これを書かずに俺は死ねん」ブログ

タイトル 日 時
これを書かずに俺は死ねん まとめ
前にこんなエントリを作っておいたけど、その後も「他のタイトルを付けたものでこのシリーズに入れた方がよさそうなもの」が出てきたもんだから、それのリファレンス的にこのエントリを記しておこうと思う。本当はシリーズ100話となったら考えようとおもってたんだけど、件数が伸びる気配がないし。 ...続きを見る

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2016/11/23 15:45
つかまされた。
これ。 ...続きを見る

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2016/11/16 01:41
これを書かずに俺は死ねん 89 ある宿屋のこと
オヤジが丁度俺の中学生の時期に相当する3年間、山梨県山梨市(当時)へ単身赴任していた。一応職制だったもんだから、寮といったものではなく、世帯向けの社宅が一棟あてがわれていて、長い休みには、オヤジが東京に帰るのではなく、何日かオフクロと俺が山梨で過ごすということがあった。 これは後述する出来事との整合から、間違いなく昭和56(1981)年夏のことである。 ...続きを見る

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2014/08/29 00:37
これを書かずに俺は死ねん 88 西武山口線のどうしても分からん話
西武山口線という路線がある。今では新交通システムになっているが、昔は「おとぎ電車」の別名を持つナローゲージの路線で、西武遊園地とユネスコ村の間を走っていたため遊園地の施設と思われたりしていたらしいが、れっきとした西武鉄道の一路線であった。駅は両端の「ユネスコ村」と「西武遊園地」の2駅のみで、途中行き違いのための信号場もあったが単線で運行されていた。バッテリー式の機関車が牽くオープンタイプの客車で営業されていたが、昭和40年代後半からは、各地で廃止されたナローゲージのSLを持って来て運行したりした... ...続きを見る

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2012/11/08 16:44
これを書かずに俺は死ねん 87 車内販売
車内販売と言うと缶ビール/ジュース類ですら何十円かマージンが乗せてあって、昔は買うにはバカバカしいものの代名詞だったもんだが。 ...続きを見る

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2012/09/18 09:50
これを書かずに俺は死ねん 86 東横線のトンネル
東急東横線の中目黒辺りというともう一つ思い出す話がある。時効だと思うから書いちゃおう。 1970年台、春闘となると必ずストライキが起きた。国鉄についてはスト権が認められてなかったから春闘云々と言わずとも「スト権スト」(スト権を奪還するためストライキを打つ)と称されるストライキをやってる有様だったが、私鉄では賃上げ交渉がまとまらずにストライキになだれ込むのは毎年恒例だったと思う。今ではほとんどなくなってしまったが、翌朝電車が動かなくなるかもしれないためストライキが予定されている日の前夜から会社に... ...続きを見る

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2012/09/18 08:57
これを書かずに俺は死ねん 85 子供運賃
先のエントリで思い出したんだけど、恵比寿に住んでた小学生時分、だいたい昭和40年代の終りだが、祐天寺駅が最寄になる友人がいて、そのお宅へ遊びに行った時、東急の運賃が子供半額で10円未満切り上げではなかったと記憶する。営団側の運賃はよく覚えてないが、とにかくその友人宅へ行った時、往路の切符購入で出たお釣の5円玉を、帰りにまた使って切符を買ったことがあったので。 当時は国鉄でも私鉄でも、自動販売機にはボタン式で多数の種類を発券できるもののほかに、「30円」「50円」といった1種類だけを販売するもの... ...続きを見る

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2012/09/16 20:52
これを書かずに俺は死ねん 84 テレビの良心とかアホとかの核心(?)
こんなことやこんなこと書いたけど、肝心要のことを書き忘れてた。 ...続きを見る

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2012/09/14 08:57
これを書かずに俺は死ねん 83 昭和57(1982)年夏のこと
掲題の夏には会津へ出かけて日中線などに乗ってきたという話を以前書いたが、同じ夏に、台風10号による増水で東海道線の富士川鉄橋が流失するという大事故があった。 その後、確かNHK特集で取り上げられていた当日のタイムラインによると、その日の下り大垣夜行(当時は確か列車番号347M)は、沼津だったか富士だったか、とにかく鉄橋手前のどこかの駅で乗り遅れそうになった人がいて、発車を待ったらしい。山手線みたいなところを除くと、改札から放送で発車を待たせるということはよくあるから(いすみ鐡道がまだ国鉄木原線... ...続きを見る

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2012/08/12 12:59
これを書かずに俺は死ねん 82 都営バス最後のバスガール
東82系統の話の続き。 昭和50年代の頃の路線バスというと、東急や都バスに見られる「後部ドアが車体中央辺りにあるタイプの2ドアの車体」では、その後部と言うか中央ドアのすぐ後ろ辺りに、人が一人立っていられるような仕切られたスペースがあった。これは実は車掌が乗る場所で、そこには運転席側で「ツーマン」の設定をした場合に使用できる、後部ドアの開閉スイッチが設置されていた。路線バスに通学で乗るようになった頃にはほとんどがワンマン運転だったから、そのスペースは混んでくると立ち客が立っていたし、ドアスイッチ... ...続きを見る

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2012/08/10 14:18
これを書かずに俺は死ねん 81 共通くん
首都圏の交通機関でもって「愛称募集」を行い、採用されたものもちゃんとあるのにまったく定着しなかった……という記憶が残ってるものと言えば、まず「E電」が挙げられるだろう。 それに続くものとして、ここで「共通くん」の話をひとくさり。覚えてる、いや知ってる人いるかねえ? ...続きを見る

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2012/08/08 20:09
これを書かずに俺は死ねん 80 バスの相互乗り入れのことなど
ソースが思い出せないんだが、以前「鉄道より早くに『バスの相互乗り入れ』が行われていた」という文章を目にした記憶がある。確かそこで言及していたのが東83系統や東98系統の話だったんで、東急についての文章だった可能性が高い。東横線と日比谷線の乗り入れより早く、東急バスと都営バスの相互乗り入れがあったという文章だったんだろうか。 ...続きを見る

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2012/08/02 02:40
これを書かずに俺は死ねん 79 荻窪ラーメン戦争のことなど
のぞみ(長女)が学校の宿題で「町を紹介する」というのをやってて、転校生なんかは元いた町を取り上げたりしてるそうなんだが、のぞみの奴は荻窪以外やり様がないと文句を言ってた。なのでアニメーションミュージアムと荻窪ラーメンでも取り上げたらどうだと言ったら「荻窪ラーメン?」 ……昨今「荻窪ラーメン」という言い方はしなくなったのかね。 ...続きを見る

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2012/07/11 17:26
これを書かずに俺は死ねん 78 6月23日−ダイヤ改正昔語り−
昭和57(1982)年6月23日、東北新幹線大宮〜盛岡間暫定開業。世の中で「緑の新幹線」が営業を始めたのはこの日が最初だったわけ。 OUTLOOKの予定表を遡ってめくってってみたら水曜日だった。当時はダイヤ改正がこういう平日にいきなりドンと行われるのは珍しくなくて、確かその前の昭和53(1978)年10月2日(今じゃ鉄道史の一部になっちまった昭和43年10月のダイヤ改正「ヨンサントオ」をもじって「ゴーサントオ」などと言われていた)、優等列車の号数が「下り奇数・上り偶数」とされ、巻き取り式の列車... ...続きを見る

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2012/06/23 23:59
これを書かずに俺は死ねん 77 青函トンネル開通体験ウォーク
青函トンネルの開業は昭和63(1988)年3月13日。この日いっぱい青函連絡船も営業したんで、この日一日だけ「青森→函館→青森」(または「函館→青森→函館」)というJRの片道切符が成立して、手書きで発券してもらった好事家もいたらしいですな。 ...続きを見る

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2011/09/05 17:48
これを書かずに俺は死ねん 76 アンケートにゃ答えるな
20年ばかり経つのでもういいだろう。バレバレだけど一応伏せておくと、あるエンドユーザー向け営業の仕事をしてた時のこと。 ...続きを見る

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2011/07/01 09:28
これを書かずに俺は死ねん 75 髄膜炎
学校が先週の最終登校日の後冬休みに入ったというか、実際は12月入ってすぐ休み、その後1日だけ登校日があった形なんだが、今年は無事会計科目2つ合格通知いただいたんで、その最終登校日にどっさり税法科目の宿題を渡されて帰って来た。 そして20日でこだまの幼稚園も終業式。のぞみとひかりはまだ小学校が休みに入らないので、お昼を女房とこだまと3人で近場のサイゼリアでとったら、やはり幼稚園が休みに入ったのか、「お母さんと幼稚園児」という客層でいっぱいだった。中には小学校受験用と思しき教材を見せて熱心に子供に... ...続きを見る

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2010/12/20 23:59
これを書かずに俺は死ねん 74 河合塾
知らぬ間に駒場も千駄ヶ谷もなくなってた。 ...続きを見る

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2010/04/03 10:32
これを書かずに俺は死ねん 73 喜多方ラーメン
喜多方ラーメン 商標登録ダメ 店主らが知財高裁に提訴 ...続きを見る

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2010/03/16 21:42
これを書かずに俺は死ねん 72 しかしJTBは
JTBが店舗を大量に畳むそうな。 んじゃ、近ツリに続いてJTBの話でもしよっか。 ...続きを見る

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2009/11/26 22:36
これを書かずに俺は死ねん 71 旅行会社がやってくれた大ポカ
昔々、もう15年以上は経つけど、教会絡みの仕事をしてたときのこと。 私が直接仕切ったのではないが、所属していた部署が、各地の教区事務所のある分野の担当者を集めた研修会を主催することとなり、講義を外部講師にお願いすることになった。先方の予定も大丈夫ということで正式にその講師に依頼をし、順調に準備が進んでいたのであるが、講師の飛行機のチケットを手配する段になって、会場最寄の大分空港への便が当日全て満席という状況に直面した。 会場は湯布院。それでは前日にお願いするか?という相談を隣の席で開催事務局... ...続きを見る

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2009/11/15 16:00
これを書かずに俺は死ねん 70 金払え!
駅弁絡みで、テレビ局からまた接触があった。 まだどうなるか分からんので詳細は置いておくとして、思い起こすと、駅弁と俺の名前が結びつくようになったのは、きんさんのサイトで掲示板に出入りしていたら、「駅弁関係の取材を座談会形式で受けるので来ないか」ときんさんからお誘いがあり、そこでその雑誌に名前が出たというのがきっかけである。 その雑誌というのが「じゃらん」という旅情報誌で、出版元は勿論リクルート。 で、確か10年くらい前の日曜日の午後、新橋界隈のビルにノコノコと出て行って取材を受けた後、担当... ...続きを見る

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2009/08/06 23:18
これを書かずに俺は死ねん 69 マクドナルドチェーンって……
セブンイレブンが消費期限切れた弁当の廃棄についてあれこれ揉めてるそうで。 とりあえず、偉そうなこと並べ立ててるあの大企業の中で、 「食い物を捨てる」ということに対する生理的嫌悪感 を持たねえ連中が上の方にいらっしゃるっつうことだけはよく分かった。 ...続きを見る

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2009/07/29 18:16
これを書かずに俺は死ねん 68 三好達治
鉄道はじめ乗物全般だとか、特撮だのアニメだのと、所謂「おたく」と接尾語(?)が付くものばかり好きなような有様だけど、実は結構マジメ(??)な方も触手を伸ばしていて、一つには音楽絡み(まあこれも例ののだめからこっち「オタと言っていいのが市民権を得た」という様相になってるが)、そして実は近現代詩も好きなのである。 きっかけは、中学生の時に知った三好達治の詩「大阿蘇」に「うわー」っと歓声を上げたくなるような感想を持ったことだった。一応岩波文庫に1冊編まれた詩集を読んでみて、結局その全貌を知ろうと筑摩... ...続きを見る

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2009/07/04 10:23
これを書かずに俺は死ねん 67 明るい農村
NHKの朝7時のニュースの前、6時半くらいからだったろうか、かつて「明るい農村」という番組が放送されていた。 中学生時分だったろうか、当時朝のチャンネルはNHKと決まっていたので、朝起きてなんとなく見ていたのであるが、ある朝、狭山茶について少々興味深い話を取り上げていた。 お茶というのは本来、狭山なり静岡なり八女なり色々な種類があって、それぞれ特徴があった。しかし、蒸して包装して……というのが工場で行われるようになってから、その「差」をなくさなければならなくなったため、全国的にどこでも「お茶... ...続きを見る

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2009/06/17 23:47
これを書かずに俺は死ねん 66 北海道の蟹
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090504-00000004-mai-soci 留辺蘂のこっちのきつね牧場とは関係ねえだろなおいw ...続きを見る

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2009/05/04 09:50
これを書かずに俺は死ねん 備考
学芸大学の牛ゆう(牛友)跡がどうなったか、外出時にちょっと寄り道して行ってみた。 ...続きを見る

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2009/04/30 23:59
これを書かずに俺は死ねん 65 電信為替
1986年8月の北海道旅行は、当初の計画では25日過ぎに46レとか「おおとり」とかの乗り通しをやって、再度青春18きっぷ1枚分(いや今では「1日分」と言わないと分からないか)で31日0時過ぎから函館→上野を乗り継いで帰宅するはずだった。ところが、下旬に入ったある日、その日の宿に到着したら「至急自宅へ電話下さいとのことです」との言づてがあり、何事かと電話をしてみたら、8月終りに予定されている日曜学校のリーダー合宿研修会に出ないのかと、同僚のリーダー(年配のシスター)から問い合わせがあった由。「オレ... ...続きを見る

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2009/04/25 17:56
これを書かずに俺は死ねん 64 ある「思い出の列車」
大学生時分、江戸川区在住の知人宅へ家庭教師のバイトで週2〜3回かよっていたことがある。夕飯を御馳走になっていたので、帰りはいつも20時台の東西線西行の電車だった。丁度三鷹行直通の最終になることが多かったな。 そんなある日、その三鷹行を逃してしまい、中野で乗換を余儀なくされ、中野駅で中央線の下りを待っていた時のこと。次の列車の行先を表す電光表示案内に、いきなり 「臨時 豊田」 の表示が赤い文字で現れた。 2段目には「停車駅 荻窪−吉祥寺−三鷹−……」と文字が流れる。 そのうちホームに電車... ...続きを見る

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2009/03/25 22:26
これを書かずに俺は死ねん 63 ある駅と駅名のこと
まずはこちらをご覧いただこうか。 ...続きを見る

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2009/03/08 23:01
これを書かずに俺は死ねん 補遺 牛友&牛ゆう&牛八
用事があって大井町へ。 こんなこととか色々書いたりして気になっていたので、 ...続きを見る

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2008/11/29 23:53
これを書かずに俺は死ねん 62 DVDはおろかビデオもなかった頃
小学生時代、友人宅にビデオデッキが置いてあって驚いたことがある。確か高校の頃だったと思うが、随分後になって、あれはどういう規格だったんだとそいつに聞いたらベータ1だと答えが返ってきた。聞いた当時でもうベータは2と3の切り替えだけができるタイプが主流だった。 我が家にやっとこさビデオデッキが登場したのが大学にかよってた時分で、親戚から中古のVHSモノラル機が巡り巡ってやってきたというもの。その当時でもまともなビデオソフトを買おうと思ったら14,800円とかいう状況で、レンタルビデオを借りて来るの... ...続きを見る

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2008/11/27 23:40
これを書かずに俺は死ねん 61 国鉄・JR職員の方々との思い出
遠軽機関区の機関士さんのこととか、別当賀駅の思い出を書いたけど、現業部門の方々との思い出も振り返れば結構ある。 ...続きを見る

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2008/11/21 23:55
これを書かずに俺は死ねん 60 国鉄解体2日前に起きたこと
前エントリを書いてて思い出したこと。 その、国鉄最後の夜を「はやぶさ」で過ごす旅のスタートに選んだ1987年3月29日発の下り大垣夜行・345Mはとんでもない大混雑で、発車1時間半だか2時間だか前に東京駅で並んでいたのに座れなかった。通路も満員で、ボックスシートの車内通路はギューギュー詰め。途中終電車として使ってた方々だろうか、熱海や沼津で降りてった方々がいたんで、通路に体育座りのようなこともしてみたが、結局ほとんど立ったまま一晩過ごした。 夜が明けて、確か名古屋を過ぎた先の出来事だったと思... ...続きを見る

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2008/11/20 15:52
これを書かずに俺は死ねん 59 鹿児島交通 或いは南薩鉄道・南薩線
こんなこと書いたけど、肝心の鹿児島交通の旅についてもちょっと思い出したことを。 ...続きを見る

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2008/11/19 23:51
これを書かずに俺は死ねん 58 携帯電話のなかった頃
確か東海道新幹線に300系が登場してすぐの頃は、あまりにスジが立ちすぎるせいか、「のぞみ」は一番と最終の2往復しかなく、間合いで日中は「ひかり」運用に入っていた。「名古屋飛ばし」は覚えていても、その「300系ひかり」、確か「ひかり238号」が登場後すぐにモーター脱落というとんでもない事故を起こして話題になったのまでご記憶の方も、今じゃ少なくなりましたな。 その事故の報道で、「長時間停車した車内では電話に行列ができ、携帯電話を持っている人は1通話100円で貸している人もいたというが、後で通話料の... ...続きを見る

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2008/11/13 21:12
これを書かずに俺は死ねん 57 新芸術家協会
のぞみの白斑治療のため通院している病院と同じビルの中に、DiskUnionが入っている。施療中にクラシック館の方をブラブラとのぞいてみて、探していたリヒターのブランデンブルグ協奏曲全曲盤を発見、買ってきた。ホントはモノラル時代のが欲しかったんだけど、これはステレオになってからミュンヘンバッハ管弦楽団を振ったやつ。 カール・リヒターとミュンヘンバッハ管弦楽団というと、1981年に来日する予定だったのが、寸前になってリヒターが心不全か何かで亡くなってしまい、こちとら「家のレコードでしか聞いたことの... ...続きを見る

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2008/11/05 11:46
これを書かずに俺は死ねん 56 三斗小屋温泉&甲子温泉
親父の山好きは何度か述べたけれど、奥多摩方面の他、気に入っていたところの一つに裏那須がある。 具体的に言うと三斗小屋温泉。 学生時分から何度も行っていたらしい。会津線(現:会津鉄道)の方へ抜けようとしたら行けども行けどもたどり着かず、えらい目に遭ったとか、慶応の仲間で吊るんで行ったら、東大のパーティーと泊り合わせちまって、女の子たちをみーんなそっちへもってかれたとか何とか……。 ...続きを見る

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2008/10/20 23:13
これを書かずに俺は死ねん 55 ヤマハホール物語
小学5年生の頃から高校1年まで、年末は必ずN響の第九を聞きに行った。 中1の時だったと思うが、そんな第九を聞きに行ったNHKホールの前で配ってたチラシに「フルトヴェングラー『ドン・ジョバンニ』」というのがあって、興味があったので小遣いをはたいて見に行った。 場所は銀座のヤマハホール。 1954年のザルツブルグ音楽祭の上演を記録したもので、確か序曲ではオーケストラピットを主に映しており、フルトヴェングラーの勇姿が拝めた。あとは舞台の上を記録したもので、古いのにカラーだった。思えば1954年と... ...続きを見る

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2008/10/10 23:04
これを書かずに俺は死ねん 54 ミニ店舗始末記
メーカーへ転職して即ディーラーへ出向した時のこと。 出向して半年ほどで業販拠点から直販拠点へ異動させられた。 この直販拠点というのが「ミニ店舗」とか「衛星店舗」とかいうやつで、バブルの最盛期に看板の数を増やせるだけ増やせ! という魂胆で作られた店だったらしい。なにしろ2棟のビルをくっつけた形の片方が立体ガレージになっているのだが、そこにハイルーフの軽自動車が入れられなかったのである。工場として認可されないからサービスが置けない。なので親店舗へ回送して点検だの修理だのをし、また回送して来ないと... ...続きを見る

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2008/10/09 23:25
これを書かずに俺は死ねん 53 大井武蔵野館
大井町に昔「大井武蔵野館」という映画館があった。 通い始めたのは1982年かその翌年くらいだったと思う。きっかけは東宝が千代田劇場(のち2代目日比谷映画……って、ここも残ってないや)で東宝50周年フェスティバルとかいう催しの日替わり上映を行なった際、ある日のプログラムが「ゴジラ・モスラ・ラドンの3本立て+特撮映画予告編集」となっていて、たまたま日曜日なので同好の士(クラスメート)と誘い合わせて行ってみたら「超満員+フダドメ+長蛇の列」。あきらめてその日は帰ったが、「ぴあ」か何かで特撮の特集プロ... ...続きを見る

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2008/10/03 23:03
これを書かずに俺は死ねん 52 牛友と牛ゆう
高校時代のこと。 学芸大学駅すぐそばの高架下に「牛友」というチェーン店のカレー屋があった。これが見事に「質より量」な店で、大盛りが550グラムだったと思うが、顔よりでかい皿に、店員がいちいちハカリで量って盛り付けていた。それでいて確かカツカレーの大盛り(つまり550グラム 笑)でも600円でお釣りが来るくらいの値段だった。量だけ考えたらコストパフォーマンスは最高の店だったが、そうなってくると味も推して知るべし、バーモントだったかゴールデンだったか、とにかくよく聞く(業務用ですらない)市販品カレ... ...続きを見る

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2008/09/24 10:49
これを書かずに俺は死ねん 付記 おいオヤジ、
※中旬のエントリの改訂再掲載 ...続きを見る

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2008/09/22 23:52
これを書かずに俺は死ねん 51 奥多摩の山々で
そろそろ秋風も吹いてきたし……というわけで、以前もらった御岳のケーブルカーの割引券を使うべく、週末日帰り登山の情報を収集していた。 こだまやひかりがいるんじゃ大岳へ向かうのはムリだろうというわけで、鳩ノ巣? 日の出から沢井? あ、養沢抜けるって手もあるなあと思い、養沢鍾乳洞のことを検索してたら、あらま、2000年で茶屋共々閉鎖されたとのこと。 ...続きを見る

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2008/09/10 19:57
これを書かずに俺は死ねん 番外編(改)
予想だにしなかったこのシリーズ50件突破(笑) なので順番の整理のため、2月のエントリを少し手直しして、この日付にもって来ておこう。 ...続きを見る

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2008/09/06 23:58
これを書かずに俺は死ねん 50 ある友人の話
体格が体格なので運動神経もひどいもんだが、実はこういう体格になる前から運動音痴でどうしようもなかった。 それで、幼稚園の年長の頃だったか、確かYMCA絡みの体操クラブへかよわされることになった。 そのクラブの同じクラスに1人、ジェイという名前の外国人の男の子がいた。……いや、見た目から外国人だとばかり思ってたんだが、送り迎えにも来ていた母堂は日本人で、正確にはハーフであった。「合いの子」という言葉を使って、オフクロからぶん殴られたような気がする。 その母堂とこちらのオフクロとが仲良くなり、... ...続きを見る

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2008/09/06 19:40
これを書かずに俺は死ねん 49 甲府信金OL誘拐殺人事件と車のディーラーと
ご記憶だろうか、15年前の夏に起きた表記の事件。 当時私は自動車メーカーから出向して、都内ディーラーでセールスに従事していた。 ...続きを見る

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2008/09/04 23:58
これを書かずに俺は死ねん 48 10年ひと昔
冨田勲の音楽のせいで、どうしてもコダワリが付いて回ってる1985年のNHK特集「ザ・デイ その日 1995年 日本」(中黒とかスペースとかは正確じゃないよ)。この言葉はサブタイトルで、番組最初に大きく筆書きのような字で出るメインタイトルは確か「10年後」という言葉がズバッと使われてたように思う。ビデオでも見られない限り、確証が持てないんだが。 で、今日女房子供を女房の実家へ帰省のため送り届けて、1人帰宅し居間にいたとき、そのことをふと思い出して考えた。 8月の夏休みの思い出って、他の思い出に... ...続きを見る

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2008/08/10 23:57
これを書かずに俺は死ねん 47 高校の入試で
今さら隠すこともあるまい、26年前に学芸の附高を受験した時のこと。 科目は忘れたけど、答案用紙に氏名を書き込み、開始の合図を待っていたら、会場内を見回ってた教員の一人が、俺の答案用紙を覗き込んで、 ...続きを見る

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2008/08/09 23:54
これを書かずに俺は死ねん 46 東京都児童会館
女房が手配した学校斡旋か何かの人形劇が、児童会館のホールで開かれるというのだが、女房から出た質問は、 「渋谷の駅からどう行くの?」 ではなくて、 「渋谷ってどう行くの?」 こりゃ遭難者が出るぞというわけで、急遽休暇を申請して同行することと相成りました。 どうせなら一日そこで遊ばせたら?と言ったら、そういう施設だと知らなかったらしく、劇は午後だけども朝のうちに出発。10時までに入館。「地下から順に見る」と言う女房子供を残し、一旦仕事場へ行ってやっつけ仕事をして、お昼までに再度合流。近くの... ...続きを見る

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2008/08/01 23:53
これを書かずに俺は死ねん 45 東急コーチ
数日前、ちょっと用事があって自由ヶ丘から東急コーチに乗った。 自由ヶ丘駅の変貌振り。 あまり変わらない印象の駅前広場。 相変わらず狭くて通り難そうな取り付け道路。 そして昔とまるで変わってしまった東急コーチの車体。 ...続きを見る

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2008/07/19 02:34
これを書かずに俺は死ねん 44 島原ボランティア参戦記
雲仙普賢岳が噴火したのは1990年のこと。最初は地元でも「観光資源になるんじゃないか?」くらいに考えてたフシがあったが(詳細後述)、溶岩ドームが崩れて高温・高速の煙のような粉体流が発生、報道陣が陣取っていた「定点」と呼ばれるところを飲み込んで多数の死者を出した頃から事態は悪化。交通も分断、地元の人々の惨状が報道されるようになった。件の粉体流を指す専門用語「火砕流」なんてのが急にポピュラーになったのをご記憶の方も多いと思う。 1991年の夏。当時の勤め先では夏休みは5日取れたので、8月最後の週に... ...続きを見る

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2008/07/15 01:02
これを書かずに俺は死ねん 43 免許試験場のことなど
実は、自動車の運転免許を取ったのは社会に出てからなんである。 東京で生活している分には自動車なんて要らないし、例えば駐車場が自宅になくて有料で借りた場合、週3日以上乗らないとトータルコストは持たない方が安上がり、というような試算を週刊誌で見たりしたもんだから、学生時代には運転免許は取らなかった。 ところが、大学出ていきなり福島県は喜多方市に赴任。ここはクルマがないとやっていけない典型的な田舎だったので、仕事場の裏にある教習所へ仕事帰りに通い始めた。残業のある時も定時に教習所へ行って2時間乗っ... ...続きを見る

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2008/07/05 22:50
これを書かずに俺は死ねん 42 富士急が停電した話
今や東京駅から「通勤快速」が直通運転している富士急。正式名称は富士急行。その乗り入れの歴史は結構古く、「山スカ」「山ゲタ」の時代より前まで遡るそうだ。中央本線より先に富士急が電化されていたもんだから、逆に富士急側が直通運転用のディーゼルカーを用意し、中央線の急行列車に併結、新宿へ乗り入れていた時代もあったという。 ...続きを見る

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2008/05/20 23:53
これを書かずに俺は死ねん 41 ある手紙
以前のエントリでも話題にした有名人から、10年くらい前にいただいたハガキ。 ...続きを見る

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2008/05/14 01:02
これを書いたら殺される
っちゅうネタもある。 ...続きを見る

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2008/03/15 23:59
これを書かずに俺は死ねん 40 余は如何にして基督信徒となりし乎
「新潮文庫の100冊」という小冊子が毎年出される。確かこれだったと思うんだが、三浦綾子の『塩狩峠』が紹介されていて、塩狩峠で殉職した鉄道マンというのに興味を持ったのが高校1年の秋。 初めて渡道したのが大学に上がる春だったから、当時としては「まだ見ぬ北海道」についての描写に一番興味を覚えたという有様だった。読んで初めて宗教ネタの小説だということを知ったし、三浦綾子がそっちの方(?)で有名な作家であるということを知ったのは、もっと後のことだった。斯様に 「クリスチャンというのは自分と違う世界に生... ...続きを見る

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2008/03/14 00:56
これを書かずに俺は死ねん 39 インド夜想曲
社会人2年目の90年8月。 仕事で喜多方にいたんだけど、元の東京での所属教会の主任司祭がインドへボランティアへ行くというので、なけなしの年休をホイホイと注ぎ込んで同行することにした。 ...続きを見る

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2008/03/14 00:09
これを書かずに俺は死ねん 38 江藤俊哉先生の孫弟子だった頃
バイオリン歴が4歳の時に始まって、小学校時代には銀座の山野楽器にかよっていたという話を書いたが、その後、どうも基礎がしっかりしてないのに曲目だけ先へ先へと進んだ結果として、テクニックはともかく読譜力などに問題が露見してしまった。そこで、親の勧めの通り、思い切って師事する先生を変えることにした。先の先生には中学受験云々という理由を話して辞め、父の以前からの知人の紹介で、江藤俊哉の弟子だという女性バイオリニストのところへ入門打診と相成った。 当初はその方のお弟子さんでも紹介していただければ……とい... ...続きを見る

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2008/03/14 00:02
これを書かずに俺は死ねん 37 小さな恋の物語
これも86年夏の北海道の話。 ...続きを見る

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2008/03/13 23:47
これを書かずに俺は死ねん 36 キシャノキシャキシャデ……
青函連絡船(保存)関係のボランティアに何度か参加しているのはご存知の通りなんだが、産業遺産としての保存を考えるシンポジウムと見学会があり、そのボランティアスタッフとして参加した時のこと。 会場は保存されている青函連絡船で、参加者は100人くらいだったろうか。最初はホールで講演会。それから参加者を15人くらいずつの班に分け、普段公開していないところを見せる見学会となった。各班には先頭で説明に当るスタッフの他、迷子にならないように列の途中や最後尾にスタッフが就くこととなり、その誘導係として1つの班... ...続きを見る

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2008/03/13 23:29
これを書かずに俺は死ねん 35 大学の志望理由
法学部を選んだ理由? ...続きを見る

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2008/03/13 09:24
これを書かずに俺は死ねん 34 転職理由
どこかの団体職員やってる若い男(笑)が、同じ職場の年上の女性に可愛がってもらって、相手も行き遅れだし、仲良くなっちゃったと思いなよ。 それで結婚考えるようになって、その職場では共働きしてもちょっとしんどいからってんで、男の方が普通の企業に転職したと思いなよ。 で、無事カタギのサラリーマンになれたら、しばらくして結婚話がポシャッちまったと思いなよ。 ...続きを見る

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2008/03/13 09:23
これを書かずに俺は死ねん 33 飛行機に初めて乗った時
生まれて初めて飛行機に乗ったってのが忘れもしない83年3月。鹿児島→羽田。 青春18で東京から鹿児島まで行き、廃止本決まり(だったらしいがその後モタついてすぐには廃止されなかった)という鹿児島交通に乗り、帰りに飛行機を使った。大垣夜行に初めて乗ったのもこの旅だったはず。 これには少々イワクがある。 部活の合間を縫っての日程だったもんで、どうあがいても往復陸路では無理、片道は飛行機でも使わざるを得ないという結論で手詰まり(?)になっていた。 そこで思い出したのが、ばーさんからの高校合格祝い... ...続きを見る

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2008/03/12 11:19
これを書かずに俺は死ねん 32 板付遺跡
82年の「青春18のびのびきっぷ」初登場時、これを使って唐古と板付の遺跡を回る旅に出た。高校入学前の春である。 ...続きを見る

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2008/03/12 10:44
これを書かずに俺は死ねん 31 駿河小山
15年くらい経つから駅名出してもいいだろw ...続きを見る

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2008/03/12 10:43
これを書かずに俺は死ねん 30 任命司教
長らく空位だったどこぞの司教に、東京の司祭が任命された時のこと。叙階前の司教なので「任命司教」と呼ぶ。 で、その司教様、司教になるのをとてもいやがり、「この人物問題あり」という報告を司教協議会だか大使館だか経由でローマへ送ってもらったんだが、 ...続きを見る

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2008/03/12 10:42
これを書かずに俺は死ねん 29 プリプリ
プリプリがGET CRAZYか何かで売り出した時だから20年以上前か? テレビの音楽番組に、「奥居香(現:岸谷香)の初恋の人」っつって、俺の知ってる野郎が出てきたという話をクラス会で聞いたことがある。俺と奥居香とは同じ学年でクラスは違ったんだが、奥居香と同じクラスにいた粗暴でどうしようもない野郎がその初恋のお相手とのことで、そいつはなんであの小学校入れたの?というタイプと言っちまうと何だが、とにかくあまり関わり合い持ちたくない奴だった。当然高校へは上がれず(そりゃ奥井香も同じかw)その後のこと... ...続きを見る

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2008/03/12 10:41
これを書かずに俺は死ねん 28 荻窪駅前バブル狂騒曲
親父やオフクロのマージャン仲間で、学校の先生なんだけどビル1軒持ってるってオバサンがいた。バブル当時、2億円でオファーがあったとか何とか自慢気に話してたっけ。 ...続きを見る

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2008/03/12 10:40
これを書かずに俺は死ねん 27 合理化と治安
都内南側、民鉄の2路線が交わる駅で、トイレに入ったら、 ...続きを見る

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2008/03/12 10:39
これを書かずに俺は死ねん 26 学校での盗難事件
小学校時分にNHKクイズ「ホントにホント?」という番組へ問題を送ったら、中学になってからこれが採用された(ネタ出したのは親父なんだが)。 ところが前述の通り、こちとら苗字が変わってたもんだから、その旨NHKへ伝えたけど、編集が終ってしまっており直せないと言ってきた。それで、お詫びにとNHKのロゴが付いたシャーボが届いた。 これ、ある時学校の机に筆箱ごと置いておいたら、教室を移動する授業の間に見事盗まれた。 ...続きを見る

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2008/03/12 10:30
これを書かずに俺は死ねん 25 SLホテル
野辺山のSLホテルに泊ったのは76年だったかな、10系ロネだったんだが走行中の(?)10系ってとうとう乗れなかったもんだから、今考えると貴重な体験だったわけだが。 記憶する限りでC56にロネ+ロネ+お座敷客車+ロネ+ロネで、お座敷客車は片側通路に跳ね上げ式の畳表のフタができるようになっていたから、関係ない車体をそこへ持ってきて仕立てたものではなく、現役時代から元々お座敷客車だったものだと思う。お座敷客車は完全にフリースペースで、素泊まりだったから野辺山駅の方へ飯を食いに行ったように記憶する。 ... ...続きを見る

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2008/03/09 00:09
これを書かずに俺は死ねん 24 横浜中華街の片隅で
今俺が名乗っているのは母方の苗字。父方はあの総裁選2回ずっこけたオタクの大御所と同じ苗字だった。俺が中学上がる時に俺の(苗字を変えるという)了解を得て、親父もろともオフクロの実家の養子に入ったわけ。 母方のお墓は日暮里にあるんだが、父方のはどういうわけか横浜の方にある。最寄は東神奈川駅。 それで、そっちの墓参りの帰りには、よく横浜方面で食事をした。多かったのが横浜中華街。となると京浜東北&根岸線で向かうことが多かったが、石川町駅側から回ると反対側になる朝陽門の辺りに、両親のお気に入りの店があ... ...続きを見る

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2008/03/08 17:03
これを書かずに俺は死ねん 23 キハ261
「スーパー宗谷」という特急に充当すべく開発・製造されたディーゼルカー。 この車輌の製造を担当してた事業所の知人からチラリと聞いた話。 ...続きを見る

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2008/03/08 16:36
これを書かずに俺は死ねん 22 あるとほ宿の年越し騒動
母子里一刻館で年越しをするのが慣例になってたんだが、実はその慣例が始まる96〜97年の年越しでは、北海道の他のとほ宿に年越し宿泊を申し込んでいた。オホーツクの初日の出を見ようという魂胆で、そちら側に近い、というか「なまら蝦夷」か何かにオホーツクの日の出のことが書かれていたから、その記事を担当した宿というわけだったんだが……。 最初の電話では、「除雪の仕事(バイト)が忙しい時期なんで、ちょっとどうなるか」とのことで、こちらもカップめんでも持って行くから素泊まり・自炊扱いで頼みますなどとお願いして... ...続きを見る

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2008/03/08 16:09
これを書かずに俺は死ねん 21 最年少コンマス奮戦記
↑○付き数字がなくなったけどまだ続く。 ...続きを見る

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2008/03/08 15:49
これを書かずに俺は死ねんS生命保険
親が俺に掛けた生命保険が3件あった。保険者がオフクロ、被保険者が俺。 ...続きを見る

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2008/03/05 23:41
これを書かずに俺は死ねんR原稿は誰のもの
雑誌編集の仕事をしてた時のこと。担当していた雑誌の編集企画に名を連ねていた大学教授から連絡があり、その教授が企画した連載(執筆者多数)の原稿(データ)をよこせと言って来た。 この時点で「上司を通してくれ」と言えばよかったんだが、当時の勤務先というのがまた指揮命令系統のグチャグチャな職場だったから、こちらとしても「上からの命令」という認識しかできなかった。「紙になってからの校正が反映されたものはない、印刷所入稿に使ったワープロソフトのデータファイルでよろしいか?」と聞いたらそれでも結構とのことだ... ...続きを見る

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2008/03/05 23:17
これを書かずに俺は死ねんQ分かる人には分かる話を書いておく
あのですね、 ...続きを見る

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2008/03/05 22:52
これを書かずに俺は死ねんP銀座喜多八
親父のやってた店の風呂敷が出てきた話を以前書いたが、その店の名前は喜多八(ホントは喜の字が七を3つ重ねた字体)といった。銀座にあったそうだ。池波正太郎の書く文章に登場したとかしないとか。昔の焼き鳥は網で一切れ一切れ焼いていたんだけれども、串に刺して団子と同じような格好にして客に出すということを考え付いたのは祖父だったとかいう話を聞いたことがある。誰かの著作のコピーを親類から見せてもらって知ったんだが、その書名が思い出せない。 その文章にはまた「その店には慶応にかよう双子の兄弟が」云々とあって、... ...続きを見る

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2008/03/04 23:15
これを書かずに俺は死ねんOとほ宿のことなど
「とほ」。 北海道に多い、男女別相部屋で安く泊れる「旅人宿」「ユース民宿」などと呼ばれた宿のガイドブック。今では逆に、そういう宿を「とほ宿」と呼ぶことが定着しているようだ。 ...続きを見る

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2008/03/03 23:40
これを書かずに俺は死ねんNユースホステルでの怪事件
今はなくなってしまった三陸地方のユースホステルで聞いた話。 そこは一応専業だったんだけれども、建物自体は古い日本旅館をそのまま使っていて、各室には丸窓や床の間があって、旅館の和室の雰囲気そのままだった。 俺が泊ったのはゴールデンウィーク後半で、近場の大学のYH研からヘルパーが来ており、どうも運営自体このヘルパー達がほとんど全部仕切っている様子であった。結局出発までペアレント氏の顔を拝んだ記憶がない。 というわけで、宿泊客も揃い、頃合も20時過ぎたので、ヘルパーの一人が、 「どうでしょう、... ...続きを見る

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2008/03/03 23:18
これを書かずに俺は死ねんM青函連絡船の美少女
隠しページにFlashで乗せてたのをカミングアウトしちまいましょう。もう20年経つから写真を見せたところで問題なかろう。 これ(音注意)。 ...続きを見る

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2008/03/03 02:25
これを書かずに俺は死ねんLMr.CRAFT
恵比寿に住んでいた頃、近所に模型専門店ができた。プレハブ2階建てで、1階店舗は壁面一杯にジャンル別に分けられたプラモデルが陳列されていて、片隅には塗料や工具類、書籍もあり、それまで知っていた玩具屋とはちょっと違う雰囲気に彩られていた。 開店当時、ハセガワがベレンコ中尉亡命事件で名を馳せたMig25を1/72でリリースしたりして、航空機プラモデルが充実していく、まさにその端緒の頃だったと思う。レジン追加で箱替えたキットばかりの今のハセガワに、あの頃の情熱はないような気がする。 ...続きを見る

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2008/03/03 00:44
これを書かずに俺は死ねんK母子里物語
北海道雨竜郡幌加内町字母子里。 かつてJR深名線が営業していた頃は北母子里という駅があった。地名は「母子里(もしり)」なのだが、他所に「茂尻」の字を当てた駅があり、昔はカナ表記で処理するものも多かったため(そう言われてみりゃN型マルスの頃まで「ナカノ」と「ナガノ」に線名略称を付けて発券していたっけ)、区別のために「北」を冠したと聞いたことがある。 この地では大学演習林の観測で−44.8℃という気温を観測したことがあり、非公式記録では国内最低記録なんだそうだ。イワク因縁をアレコレ調べてみたとこ... ...続きを見る

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2008/03/02 23:59
これを書かずに俺は死ねんJ大門交差点バブル狂騒曲
大門に住んでいたばーさんは土地も一応持っていた。 大門交差点に面する角地だったんだが、半分に2階建ての建物を建てて自ら床屋を営みつつ住んでおり、残りの半分を人に貸していた。貸した先でも2階建ての建物を建てて、俺が物心ついた頃は「プラムハニップ」という梅を使ったジュースを売る会社の本社か営業所だったか、とにかくその看板を出していた記憶があるが、最終的に立ち食い蕎麦屋になっていた。ちなみにプラムハニップは一時はポッカが販社となってポッカの販売機で見かけることがあったんだが、最近は和歌山の元々の製造... ...続きを見る

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2008/03/02 00:29
これを書かずに俺は死ねんIある団地の自治会
都内のある団地で起きた話。 ...続きを見る

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2008/03/01 22:39
これを書かずに俺は死ねんH釧路まきばユースホステル
タイトルは間違いではない。 昔はユースホステル名に地名を入れろという規則があったそうで、当初「星のまきばユースホステル」という名前を申請しようとしたら協会側からその旨の話があり、「釧路まきばユースホステル」という名前で開所した。その後、その地名についての締め付けがなくなったもんだから、改名という形で「星のまきばユースホステル」とした。名前の由来は庄野英二の『星の牧場』から……泊った時にヘルパー氏から聞いた話。 ...続きを見る

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2008/03/01 11:46
これを書かずに俺は死ねんG小籠包のこと
小籠包。ショーロンポー。「小龍包」と書くと間違いだとか。 小さめの肉まんだけど、中にスープと呼んでいいような状態でおつゆが入ってる、アレ。 今でこそ冷凍食品でも売ってるくらいポピュラーになってるけど、俺が小学生時分に食ってた頃は、友人に説明するのが難しかった。なにせやってる店自体あまりなかったから。 ...続きを見る

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2008/03/01 10:50
これを書かずに俺は死ねんF士幌線代行バス乗車券盗難事件
1986年のこと。 練習の度に飲み代がかかる大学のサークル(オケ……俺の行ってた大学はお分かりだろうから、そこのオケと言えばあのワグネルソサエティである。……そうか、「バイオリン弾かなくなった理由」はそこだ!)に嫌気がさしてとっとと辞めて、更に2年生になってからは「昼をまたいで受講すると昼食が外食になるから金がかかる!」というむちゃくちゃな理屈で曜日ごとに午前だけ・午後だけという授業の取り方にしたところ、前期末までにバイトだの小遣い(食費分)だのといったことで10万円以上の貯金ができた。そこで... ...続きを見る

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2008/02/29 14:38
これを書かずに俺は死ねんE千疋屋のメロン
千疋屋というフルーツショップがある。高い果物屋の代名詞みたいになってるが、日本橋のが本家本元で日本橋千疋屋總本店と名乗っており、銀座と京橋はのれん分けした店で別会社という形になっている。 その銀座千疋屋の会長の方(以下ご存命当時の私の呼び方に合わせ「会長」と表記する)と、うちのオフクロやばーさんが、どういうわけか付き合いがあった。俺が生まれる前に近所付き合いでもあったんだろうか。 それで、オフクロと銀座の本店(8丁目の方……今の5丁目本店は当時「ニュウ千疋屋」という「のれん分けののれん分け」... ...続きを見る

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2008/02/29 01:01
これを書かずに俺は死ねんDある公団の団地の話
日本住宅公団というのが昔あった。高度経済成長に伴って慢性的に不足をきたした都市部の住宅供給を手掛けるべく作られた特殊法人(って呼ばれるのは名前が変わった後だが)。その後他組織との統合などにより住宅・都市整備公団、都市基盤整備公団と変遷して、その末裔は現在都市再生機構(UR)となっている。 所謂「公団の団地」と呼ばれるものを日本各地に作ったのはこの日本住宅公団、ないし住宅都市整備公団である。 ...続きを見る

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2008/02/28 23:02
これを書かずに俺は死ねんC山野楽器の思い出2つ
その、山野楽器でバイオリンを習ってた頃の話。 当時の山野楽器の建物は南側に階段があり、互い違いにフロアがあるような構造になっていた。正面から上がった奥側2階がギターなどの楽器だったか、折り返して通り側になる3階がポピュラーだったかな、また折り返して奥側4階にバイオリンなどのクラシックの楽器、再度折り返して通りに面した5階にクラシックのレコード売り場、そして6階が音楽教室。さらに上へ階段は続いていたが、普段は立ち入りできないようになっていて、7階に小ホール、その上にstaff onlyのスペース... ...続きを見る

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2008/02/28 14:56
これを書かずに俺は死ねんB天賞堂
大門住まい当時だから35年は経つ。かよっていた幼稚園がバイオリン教室に場所貸しをしていた。鈴木教(笑)だったんだけど確か在籍中に教祖(笑笑)とは袂を分かったように思う。テレビで見たオーケストラのバイオリンに私が興味を示したのを親父が気に留めていて、件のバイオリン教室は当然園児にも募集がかかったので、行ってみるかということになって、それが私とバイオリンとの出会い(で、別れは……えーと……)。 幼稚園在園の終り頃に住まいを恵比寿へ移したため、教室を同じ先生が教えている銀座山野楽器の音楽教室に変更し... ...続きを見る

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2008/02/28 11:31
これを書かずに俺は死ねんAあの冬、雪まつりの後で その2
86年の冬の旅の続き。 雪まつりの後の「大雪」車中泊の朝が湧別で明けて後、湧網線で網走→釧網本線の急行「しれとこ」で標茶と乗り、標津線を根室標津まで乗り通す。 ...続きを見る

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2008/02/28 03:10
これを書かずに俺は死ねん@あの冬、雪まつりの後で
前回雪まつりへ行ったのは1986年のこと。大学1年の試験が終ったところで、勿論一人旅。確か北海道ワイド周遊券を使い、当初「八甲田」のハザの予定でいたんだが、パチンコの一発台を当てたもんだから「はくつる」のハネ、それもJTBへ行ってTRIPSで「パン下」を探してもらって購入した。 ...続きを見る

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2008/02/28 02:01

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さっちゃんちの机(更新記録兼用徒然日記) これを書かずに俺は死ねんのテーマ/BIGLOBEウェブリブログ
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